ドライバー不足は数年後には確実に深刻になる。少子高齢化や若者の車離れに加え、現在の運送会社の現役ドライバーの高齢化で、これから10年で大量のドライバーが退社していくから。
路線バスや運送会社の入り口など、運転手募集の広告も目に留まることが多くなってきた。総合トラックには22名のドライバーが在籍している。10年前はボトムで5名のドライバーだったが、小口混載の仕事をする様になって、毎年2名ペースで運転手を増やしている。
平均年齢が気になって調べてみたら44歳であった。20歳~65歳が働ける期間とすると丁度中間地点が42歳なので、ほぼ平均的である。調べてみて嬉しかったのは、年齢がきれいにバラケテいることである。写真の右列は年齢で、水色の枠の数字は入社序列である。
長尺物の混載ては、配送先の情報は現場の運転手の中になる。
インターネットのクラウドと似ている。
配送先の必要な情報、何時から荷下ろし可能か、降し先はクレーンかフォークか。
降し先でトラックの積位置も異なる。前に積むのか、右に積むのか左側に積むのか。そんな情報が積込みの約2時間の中で、運転手同士でどこからとなく共有され情報交換されていく。14年目の蓄積ではあるが、情報共有においては新人とベテランとの差もない。一ドライバーにとっては、約三割の届け先は初めて配送する所なので。日々更新されていく。
浜松湖西市にある入出運送の鈴木社長とは親しくさせてもらっている。
5月の連休に会社に打合せにいくと、一部の幹部社員は休みの落ち着いた中で仕事をしにきていた。我々が食堂で打合せしていると、作業着姿の年配のご夫婦が表れた。麦藁帽をかぶり近所の農家の方と思いきや、よく見ると鈴木社長のご両親である。休みの時に会社の周りの草むしりに来られていた。200名近い社員規模と大きな倉庫やその敷地、夫婦二人できれいにできる範囲ではないと思うのだがやはり雑草が気になるのである。休みあけに社員が出社しても、雑草がきれいに処理されたことはたぶん気付かないかもしれない。私はこんなことが家族経営の良さだと思う。
家族が生計の為に仕事をするのが家族経営、でもオーナーやオーナー家族は勿論、そこで働く社員も第二の我が家の様に会社が落ちつく場であっったら、家族的経営が存在していると思う。当社にも休みにきている社員が数名いる。会社にいついている猫が気になったり、会社の花壇の水やりが気になったり、ゆっくり洗車する為にきたり目的はマチマチ。誰もいない会社には何か魅力があり、帰り際には墓参りの後の様な爽快感さえ感じる。
配車係りの川端君がパソコンをみて一人でニタニタと喜んでいるので理由を聞いたら
お客様から以下の様なメールを、年末の挨拶でもらっていた。
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いつも お世話になります。
今年一 年大変お世話になりました。
数々の ピンチを川端さんのおかげで乗り切る事ができました。
特に11月の〇〇向けの4t平車2台を手配して頂いたのはとても助かりました。
いま付き合っている運送会社さんの中でも御社の配車能力は一番です。
来年も 色々と無理をお願いするかと思いますがよろしくお願いいたします。
では川端様も良いお年をお迎えください。
12月の最終週に運送会社の経営者仲間(大阪・名古屋・浜松・東京)が福井に集合して一泊泊まり、2014年の抱負を語り合う。福井には我々が共通してお願いしているデザイナーの宗倉さんがいる。移動中の車内も仕事の話で盛り上がり話題が途切れない。私は2014年の抱負として、長尺物の積み合せの配送エリアの拡大と車輌台数の増加を掲げた。
監視カメラをリニューアル。
画像をサーバーで飛ばして携帯電話と連動しており、簡単に何処からでも事業所の置き場が見られる。画素数も高くなり、夜間の認識度も高まった。
先日の連休を襲った台風の時も自宅から現場の様子を見ることができ、安心して休むことができた。
総合トラックの母体となったのは梶哲商店在籍のドライバーと車輌だった。昭和50年代は運送業が許認可の時代で、なかなか新免許意はおりなかった。免許取得後はすぐさま運転手を総合トラックに移籍し営業ナンバー全車両を切りかえた。
梶哲商店の父親が経営していた時代は、在籍の20名位の運転手に対してかなり厳しかった。2運転手は軍隊方式で接しており、作業中のヘルメット着用について議論になったことがあった。作業に取り掛かる時ヘルメットをかぶるのか、運転台からを降りる時かである。徹底させる為に父親の下した結論は議論の余地がなく、就業時間中は全てで運転中でもヘルメット着用を義務付けた。営業や経理以外のスタッフは事務所の中でもヘルメット着用で、今私の後頭部の髪が少し薄いのもその時の影響かもしれない。見方によっては暴君だが、100%のヘルメットの着用は達成できた。ヘルメットをとった時の社員の顔はなかなか見ることはなく、髪の毛が見えない分だけ年齢が解りづらく結構全員若くみえた。
日曜日に5名の方に、数ヶ月前の旅行の写真を焼き増してお送りした。
火曜日にお礼のEメールを二通いただき、木曜日には手紙が三通届いた。バリバリ現役で超多忙の皆様だけに、Eメールのことも含め自宅のポストに三通の礼状を見たときは感動した。全員の方よりお礼の言葉、しかもEメールも手紙もそれぞれの最短の時間で。
お付き合いするなら、やはり心ある方と心あるお付き合いをしたい。たかが礼状されど礼状、小さなことがしっかり出来るから皆さん大きな仕事をされているのだと感じた。
父(梶哲)が昭和27年に墨田区で創業しその後兄(梶哲夫)が引き継いだ梶哲商店が、今年で60年を迎える。父はカジサトシと言う名前だか、社名はカジテツと読む。私は創業者の名前が社名になるのが結構好きで、ある意味解りすい。たまに誤って「梶鉄」と書いてくる人もいるが、鉄鋼関係の仕事なので悪い気持ちは持たない。11月22日には浦安のホテルで記念式典も行う予定で、7月には記念式典準備スタッフも決まりその準備で何となく慌しくなってきた。
実は、鉄屋は父の代にスタートしたのではなく、戦前祖父がシャーリング業を東京で営んでいたが戦争で中断していた。25年位前だろうか、祖父の時代に中断する際転売したシャーリング機械の歯車が偶然に出てきた。その時の父は奇跡的だと相当喜んでいたのを記憶している。今回、錆だらけになって倉庫の片隅に保管されていた歯車を、60周年を機に綺麗にしてオブジェとして玄関口に置きなおすという。