田中角栄と周恩来の間で交わされた1972年の日中国交正常化から40年が過ぎた。その時、日本の訪中団の最年少で通訳として参加されたS嬢にその時の生きた話を、4月に仲間の会で講演をしてもらうことになった。
その下打ち合わせの為、昨年より5~6回の事前打合せをしつつ、当時の経緯を聞かせてもらっているが聞けば聞くほど興味深い話が多い。
そこには、状況を詳しく知るものでしか解らない表にでてこない先駆者が何人もいた。
日本には中国に対する太平洋戦争の戦争責任があり、中国のなかでは反日感情も根強く、一方では当時は中華人民共和国を中国とは認めておらず台湾と国交を交わしていた。その二つの障害を乗り越えての国交回復、それぞれの国で双方の大幅な譲歩が必要だった。表向きは田中角栄総理のお手柄だが、そこに至るまではLT貿易の存在無くしては実現しなかった。
周恩来が父のような存在として尊敬していた松村謙三さんの1971年の葬儀に中国から異例の弔問団が来日して、その動きが1792年のキッシンジャーの訪中、そして田中角栄の訪中と続いた。中国の繁栄のためには、中国にとっては日本とに国交回復が重要課題だったが、そこにいたるまでは多くの人が長年にわたって国運を懸けて命がけで井戸を掘ってきた、聞けば聞くほど松村謙三の存在が大きい。
「井戸を掘る」は中国で良く使われ表現で、日本では「麦踏み」がそれに近い表現かもしれない。
ここ数日その講演の準備で数百枚の写真の整理とデジタル化をしているが、どの写真でも控えめな周恩来の立ち位置は彼の人柄を表している。
(写真2: 周恩来氏と松村謙三氏)