総合トラックの母体となったのは梶哲商店在籍のドライバーと車輌だった。昭和50年代は運送業が許認可の時代で、なかなか新免許意はおりなかった。免許取得後はすぐさま運転手を総合トラックに移籍し営業ナンバー全車両を切りかえた。
梶哲商店の父親が経営していた時代は、在籍の20名位の運転手に対してかなり厳しかった。2運転手は軍隊方式で接しており、作業中のヘルメット着用について議論になったことがあった。作業に取り掛かる時ヘルメットをかぶるのか、運転台からを降りる時かである。徹底させる為に父親の下した結論は議論の余地がなく、就業時間中は全てで運転中でもヘルメット着用を義務付けた。営業や経理以外のスタッフは事務所の中でもヘルメット着用で、今私の後頭部の髪が少し薄いのもその時の影響かもしれない。見方によっては暴君だが、100%のヘルメットの着用は達成できた。ヘルメットをとった時の社員の顔はなかなか見ることはなく、髪の毛が見えない分だけ年齢が解りづらく結構全員若くみえた。